突然宣伝ではないことを書き込んでみる。
ちょっと前に、「仕事しながらバンドをやるのは、云々」みたいな話が少しバズっていた。
多分、この記事から派生した話題だと思う。同じタイミングで流れてきたから。
焦点は、いわゆるバイトやフリーターで「世を忍ぶ仮の姿」的に働くのではなく、がっつり仕事しながらバンドもしっかりとやっていけるのか、ということ。
アオりのタイトルに「仕事しながらバンドやるのはダサくない」みたいなのが付いていたが、ダサいかどうかということには特に触れてなかったと思う。
ただ、この「両立」という単なる状況や手法に、ダサいかダサくないかの価値基準を入れているのは何なのかよく分からない。そこはダサい気もする。
それはさておき、記事の結論やこれを受けての皆様の意見も「できる」ばかりだった。
書かれていた、「有休を上手に使ってツアー回ったり、レコーディングしたりできるよ」とか「バイトやフリーターで時間単価が低いと自由になる時間は逆に少なくなるよ」とかって言うのは、ゴモットモだと思う。
でも、バンドを辞めちゃったヒトの大半は、仕事が忙しいとか言うことではなく、単に飽きたり、モチベーションを維持できるほどの評価や状況がなくて、続けるのが苦痛になり辞めただけなのでは、と思っている。
正確には、バンドで得る諸々のプラスが、飽きて少なくなったり、そのプラスを、バンドやることで逆に失うもの、つまりマイナス要素が上回って、しんどくなるのかなと思っている。
実際、自分の周りで、傍目で見て「続けている」と言えるバンドは、評価を受けているし、それに伴ってバリバリやる状況も生じているように見える。(県外に定期的にライブしにいったり、CDが流通に乗っていたりみたいなことですけど。)
あるいは評価度外視で、平たく言えば趣味で楽しんでいる。
自分がどちらかと言われると、正味、極めて後者に近い前者くらいの、微妙な立ち位置かもしれない。
で、呼応しているヒト達の中にも、実は後者寄りなヒトも相当数含まれてやしないか?と思ってしまった。
つまり記事のヒトほどバリバリやれてないのに比べらくもなく、やっているウチにも入らないかも。
趣味の延長みたいなものだったら、別に生活を切り売りする必要も、ジレンマに陥る必要もないので。
趣味としてやることは否定しないが、ここで言われているやる、とは意味合いが随分違うし。
一方で、記事で語られている両立のあり方も、整然としてビジネスライクだし、どうも腑に落ちない。
「色々割り切って、ロジックで組み立てて、何々の最大化!最適化!みたいなことは仕事で腐るほどやってるからもうたくさん。音楽ではもっとマジカルな要素が欲しい」と思っている僕は、ああそうです、甘い考えの人間です。
そんなんだから、鳴かず飛ばずでクスブっているくせに、本当にごめんなさい。
ところで、先日、広島のヌイル(以下略)というバンドをやっている方が、居酒屋さんをオープンさせた。
僕は僭越ながら、この方は、最も身近にいる天才の一人だと思っていて、この方が前にやっていたバンドなどは、まかり間違えば凛として時雨みたいな存在になっていてもおかしくなかったとすら思っている。
そんな方が、自分と同じ町で仕事をして、状況の変化を経ながら、そして何より、こと音楽に関しては、「どうやって」音楽をやるかではなく「どんな」音楽をやるかだけに注力してやっている。
「どんな」が犠牲になりそうな「どうやって」が目の前をチラついたときには、それが己のステイタスや生活を向上させるものであったとしても却下して、「どんな」音楽をやるか、を常に最優先にできるやり方で活動している。
その結果として、音楽以外の仕事をしながら、バンドをやっている。今は居酒屋の店主。
このあり方は、「どうやって」を犠牲にしたがゆえに、むしろ自分の音楽活動の物理的、状況的「範囲」は狭めてしまっているのかもしれない。
でも、僕には、この方のようなあり方がトテモしっくり来る。市井にあり、異様なハイクオリティを誇る音楽だなんて、最高じゃないか。
市井にあるからこそ研がれる性質のクオリティというものもあってよいはずだ。そこには、人格・生活破綻者がライブで数万人集めるのと同じような音楽のマジックを感じる。
とは言え、これは半分以上僕の勝手な想像で、本人からは「違うよ」と言われるかもしれない。いや、むしろ違うと言ってほしい。状況に自覚的でないことも含めて、そのあり方がステキでマジカルなのだから。
(補記)
これを書いていたところ、熊本のDoit Scienceのキヨタさんが、同じ記事に対してと思しきツイートをしていて、しかし腑に落ちない理由がより踏み込んだ内容で、なるほどと思った。
これらは、それこそ「どんな」音楽をやるか突き詰める過程で生じるジレンマそのものだと思う。
僕が上で書いたような「市井にあるからこそ研がれる性質のクオリティ」などは幻想で、ともすれば「生活に負ける」という、これは、僕なんかより、音楽にウェイトを傾けてやっているヒトの肌感覚なだけに、より真に迫ったものなのかもしれない。
外野からはDoitの表現が生活に負けているとは到底思えないのだけど。
それでも、やっぱりマジックが欲しいし、あると思うし、もっと実感したいと思いながら、僕はこれからも細々とバンドやら、音楽をやっていこうと思いますよ。
以上です。7月15日(土)は広島クアトロです。来てください。(結局宣伝を忘れない)
多分、この記事から派生した話題だと思う。同じタイミングで流れてきたから。
焦点は、いわゆるバイトやフリーターで「世を忍ぶ仮の姿」的に働くのではなく、がっつり仕事しながらバンドもしっかりとやっていけるのか、ということ。
アオりのタイトルに「仕事しながらバンドやるのはダサくない」みたいなのが付いていたが、ダサいかどうかということには特に触れてなかったと思う。
ただ、この「両立」という単なる状況や手法に、ダサいかダサくないかの価値基準を入れているのは何なのかよく分からない。そこはダサい気もする。
それはさておき、記事の結論やこれを受けての皆様の意見も「できる」ばかりだった。
書かれていた、「有休を上手に使ってツアー回ったり、レコーディングしたりできるよ」とか「バイトやフリーターで時間単価が低いと自由になる時間は逆に少なくなるよ」とかって言うのは、ゴモットモだと思う。
でも、バンドを辞めちゃったヒトの大半は、仕事が忙しいとか言うことではなく、単に飽きたり、モチベーションを維持できるほどの評価や状況がなくて、続けるのが苦痛になり辞めただけなのでは、と思っている。
正確には、バンドで得る諸々のプラスが、飽きて少なくなったり、そのプラスを、バンドやることで逆に失うもの、つまりマイナス要素が上回って、しんどくなるのかなと思っている。
実際、自分の周りで、傍目で見て「続けている」と言えるバンドは、評価を受けているし、それに伴ってバリバリやる状況も生じているように見える。(県外に定期的にライブしにいったり、CDが流通に乗っていたりみたいなことですけど。)
あるいは評価度外視で、平たく言えば趣味で楽しんでいる。
自分がどちらかと言われると、正味、極めて後者に近い前者くらいの、微妙な立ち位置かもしれない。
で、呼応しているヒト達の中にも、実は後者寄りなヒトも相当数含まれてやしないか?と思ってしまった。
つまり記事のヒトほどバリバリやれてないのに比べらくもなく、やっているウチにも入らないかも。
趣味の延長みたいなものだったら、別に生活を切り売りする必要も、ジレンマに陥る必要もないので。
趣味としてやることは否定しないが、ここで言われているやる、とは意味合いが随分違うし。
一方で、記事で語られている両立のあり方も、整然としてビジネスライクだし、どうも腑に落ちない。
「色々割り切って、ロジックで組み立てて、何々の最大化!最適化!みたいなことは仕事で腐るほどやってるからもうたくさん。音楽ではもっとマジカルな要素が欲しい」と思っている僕は、ああそうです、甘い考えの人間です。
そんなんだから、鳴かず飛ばずでクスブっているくせに、本当にごめんなさい。
ところで、先日、広島のヌイル(以下略)というバンドをやっている方が、居酒屋さんをオープンさせた。
僕は僭越ながら、この方は、最も身近にいる天才の一人だと思っていて、この方が前にやっていたバンドなどは、まかり間違えば凛として時雨みたいな存在になっていてもおかしくなかったとすら思っている。
そんな方が、自分と同じ町で仕事をして、状況の変化を経ながら、そして何より、こと音楽に関しては、「どうやって」音楽をやるかではなく「どんな」音楽をやるかだけに注力してやっている。
「どんな」が犠牲になりそうな「どうやって」が目の前をチラついたときには、それが己のステイタスや生活を向上させるものであったとしても却下して、「どんな」音楽をやるか、を常に最優先にできるやり方で活動している。
その結果として、音楽以外の仕事をしながら、バンドをやっている。今は居酒屋の店主。
このあり方は、「どうやって」を犠牲にしたがゆえに、むしろ自分の音楽活動の物理的、状況的「範囲」は狭めてしまっているのかもしれない。
でも、僕には、この方のようなあり方がトテモしっくり来る。市井にあり、異様なハイクオリティを誇る音楽だなんて、最高じゃないか。
市井にあるからこそ研がれる性質のクオリティというものもあってよいはずだ。そこには、人格・生活破綻者がライブで数万人集めるのと同じような音楽のマジックを感じる。
とは言え、これは半分以上僕の勝手な想像で、本人からは「違うよ」と言われるかもしれない。いや、むしろ違うと言ってほしい。状況に自覚的でないことも含めて、そのあり方がステキでマジカルなのだから。
(補記)
これを書いていたところ、熊本のDoit Scienceのキヨタさんが、同じ記事に対してと思しきツイートをしていて、しかし腑に落ちない理由がより踏み込んだ内容で、なるほどと思った。
これらは、それこそ「どんな」音楽をやるか突き詰める過程で生じるジレンマそのものだと思う。
僕が上で書いたような「市井にあるからこそ研がれる性質のクオリティ」などは幻想で、ともすれば「生活に負ける」という、これは、僕なんかより、音楽にウェイトを傾けてやっているヒトの肌感覚なだけに、より真に迫ったものなのかもしれない。
外野からはDoitの表現が生活に負けているとは到底思えないのだけど。
それでも、やっぱりマジックが欲しいし、あると思うし、もっと実感したいと思いながら、僕はこれからも細々とバンドやら、音楽をやっていこうと思いますよ。
以上です。7月15日(土)は広島クアトロです。来てください。(結局宣伝を忘れない)
by kthemusicgirl
| 2017-07-03 20:23
| YASUSHI Okada